2017.02.26

24日公開日当日、IMAXで『ラ・ラ・ランド』を観た。
率直に、とても素晴らしかった。
今後ふと繰り返し観たくなるであろうシーンも沢山もあり、原色にこだわったポップでカラフルな色彩感覚と(音響の良さもそうですが、この点でも発色の良いIMAX上映は本当にオススメです)、映画でしか描けないものに対する愛情に満ち満ちた、愛おしい作品だった。
特に『(500)日のサマー』的に描かれる夏パートまでは本当に眩いまでの映像体験で、こんな世界にずっと浸っていたいと思わせてくれる(圧倒的に可愛いのに踊っている時にちょっと変顔になってしまうエマストーンや、理屈っぽいのに驚き方がやたらと大袈裟で可愛いライアンゴズリングだけでも最高なのです)。
 
冒頭、とにかく凄いと聞いていたハイウェイを封鎖して行われた壮大なダンスシーンから、どこまでもポジティブな肯定感と躍動感に満ち溢れ、圧倒的な多幸感を覚え思わず泣いてしまいそうになる。
ダンスと曲が盛り上がっていくと共に感情が高まっていき、その感情が極に達する瞬間、スクリーンいっぱいにタイトルが現れる。
その瞬間の気持ち良さはまるで『ガーディアンズオブギャラクシー』の同シーンのようで、この時点で既に涙腺は緩みきっている(まだ映画が始まって10分も経っていないのだ笑)。
またポスターのアートワークにも使われているロサンゼルスの夜景をバックに踊るシーン辺りからのライアンゴズリングとエマストーンの一つ一つの行動はとてもキュートでチャーミングで、実に愛おしくて堪らない。
それまでは距離感を測り損ねていた二人が一気に歩み寄るシーンが実に微笑ましく、その歩み寄りを歌とタップダンスでもって身体的に表現される様は実にミュージカル的だ。
 
とはいえ、夢と理想に浮かれているばかりでもなく、現実と向き合うことで人生のほろ苦さもきちんと刻まれているのがこの映画の魅力だ(アカデミー賞にノミネートされた楽曲がポップで明るい曲ではなく、シリアスな曲が選ばれているのもその証左だろう)。
舞台俳優をテーマにしている点ではエマストーンの出演作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や、大切にしてきた音楽を商業との折り合いを付けることを描いている点では『はじまりのうた』(二人の主人公の視点がある一点で交わっていく話運びもどことなく共通点を感じた)が思い浮かぶ展開も繰り広げられる。
そんなほろ苦さがきちんと描かれているからこそ、クライマックスにかけての凄まじい映像体験が待っている。
ただ、このクライマックス以前でストーリーとしては完結しているようにも思えるが(冒頭のハイウェイのシーンとエマストーンの最後のオーディションのシーンの歌詞が対になっており、その歌詞こそがこの映画のテーマだ)、そこを超えてフィクションならではのエモーショナルなクライマックスを用意するのがデイミアンチャゼルという監督なのだろう。
このクライマックスは直前にリリースされた小沢健二が19年振りにリリースした「流動体について」がそのまま映像化されたといっても過言ではない程のシンクロ具合に驚き、他にもデヴィッドリンチ監督作『マルホランドドライブ』や、苦く切ない感覚は古谷実の『シガテラ』も思いだした。
そして映画全体を通して観れば、甘くて苦く、そしてなにより美しいという実にRhymesterの『Better, Sweet & Beautiful』な映画ではないか。
公開前から、サウンドトラックも聴き込み(映画を観てからだとよりあのジャケットが好きになった)、賞レースでも異常な程盛り上がっていたのでどうなることかと思っていた節もあったのですが、心底感動した。
 
という具合にむちゃむちゃ 『ラ・ラ・ラン ド』が素晴らしかったのですが、この日は村上春樹の新刊『騎士団長殺し』が発売されたり、James Blakeのライブを観たり(オープニングアクトはD.A.N)、Futureのアルバムが2週連続でリリースされたり、小沢健二がTVに出演したりと一月分位のことが一気に押し寄せてくるような1日でもありました。
夢追い人に乾杯!

2017.02.22

小沢健二が19年振りとなるシングル「流動体について」をリリースした。
前日にはテキストチャットによるインタビュー「私の平行世界」にて、シングルの発売とTV番組の出演情報(そのうちの1つは岡崎京子関連だという)などが伝えられ、発売日当日は朝日新聞の全面広告が打ち出された。
 
小沢健二というと『犬は吠えるがキャラバンは進む』や『LIFE』というアルバムで語られることが多いけれど、それ以上に短冊形のシングルにしか収録されていない曲にも名曲が多く、その作品群が彼の真骨頂と言えなくもないので(とはいえ前述のアルバムは間違いなく歴史的名盤ですが)、ライブやアルバムの発表以上にシングル発売はまさに復帰に相応しい感じがするのだ。
去年のツアー『魔法的』は事前にアナウンスされていた通り、新曲が多く披露され、そしてこれもアナウンスされていた通り、新曲の方が強く印象に残るライブだった。
ライブで初めて演奏される新曲には歌詞がスクリーンに映し出されることで、新曲をライブで発表するということ自体を作品にしたようなライブでもあり、アンコールでの新曲の振り返りと、再度演奏される新曲でもって、今までライブで新曲を聴くのとは全く違った感覚だったのを思い出す。
 
そういう意味では「流動体について」はそのライブの時間を一瞬で思い出させてくれる曲で、あのライブを体験してしまっている以上、シングルで初めて曲を聴く感覚は最早想像できない。
音源で聴くと改めて小沢健二復活を十二分に感じさせてくる言葉の力強さを再確認させられるし、特にその音像は印象的だ(2002年の『Eclectic』はD’angeloの『Voodoo』のような黒く禁欲的な音だったのだけれど、今作の音はまた違った異質感)。
と、その日は小沢健二の復活に1日浮かれているのかと思いきや、やはり『カルテット』が今週も凄かった。
今回はテイストが少し変わって松たか子宮藤官九郎による二者の視点から相反する想いを同時に振り返っていく回想シーンの連続だ。
今までに小出しにされてきた情報によって、予め起きる出来事は分かっているのに、実際の2人の恋に落ちる瞬間から、恋が冷めていく過程を見せられると、一次情報だけでは想像が及んでいなかったことに気付かされると共に、結婚生活の理想と現実の狭間に胸を締め付けられた。
最近『夫のちんぽが入らない』を読んだことや、橋口亮輔監督作の『ハッシュ!』と『ぐるりのこと。』を観返したこと、そして前クールのドラマである『逃げるは恥だが役に立つ』で家族という形の多様性について考えていたので(自民党憲法改正案もひとつのきっかけなのかもしれない)、かなり見応えのある回だった。
 
とはいえ、「おとなの掟」が流れ始めた瞬間からの圧倒的スピードで繰り広げられるサスペンスシークエンスには圧倒された。
これまでもメリハリの効いたサスペンスシーンが差し込まれてきたが、今回は更にインパクトがあり、6話目にして最終話直前のようなテンションのクリフハンガーをここに持ってくる手腕にはただただ痺れさせられ(雪の積もったロケーションやボタンの掛け間違いの連鎖にはコーエン兄弟の『ファーゴ』を想起させるし、宮藤官九郎が夫の役を演じ、殺人を取り巻く一家を描いた岩松了演出の『結びの庭』がこのドラマの背景にあるようにも思える)、坂元裕二宮藤官九郎満島ひかりが揃ったこのドラマはやはり奇跡的なのだ思う。
 
それにしても凄まじい1日だったけれど、24日は村上春樹の新刊『騎士団長殺し』の発売とアカデミー賞最有力の『ラ・ラ・ランド』の公開初日、そして小沢健二のTV出演、そして個人的にはJames Blakeの来日公演があるわけで、今週の充実具合に目眩がしてくる程だ。

2017.02.20

グザヴィエドラン監督の新作映画『たかが世界の終わり』を観た。
グザヴィエドランといえば同世代の気になる存在で、彼と同学年といえばJames Blakeにきのこ帝国の佐藤千亜妃、Simi LabのOMSB、更にその一個下は僕と同学年でTaylor Swiftに朝井リョウ、山戸結希、柳楽優弥、もう一個下になるとKOHHにtofubeats、Tyler The Creatorとなる。
そんな事はさておき、何本か観たグザヴィエドラン監督作の中では『わたしはロランス』が1番好きで、その次が『トムアットザファーム』に思い入れがあるのだけれど、今作は大好きなレアセドゥ出演作ということでそれだけでも眼福なのである。
 
主人公が12年間不在にしていた田舎の家族の元へ自らの死期を伝えに行くというのが今回の映画のプロットなのだけれど(そういった点では『トムアットザファーム』にも似たテーマを孕んでおり、またどこか山内マリコ著の『ここは退屈迎えに来て』が頭をよぎる)、12年の不在が生んだ溝、そしてその12年の間にできた新たな人間関係、そこに放り込まれ文字通り会話にならない会話劇のヒリヒリした感覚をバストショットの切り返しの連続で体験させられる。
 
ゲイである主人公にはおそらく地元には居場所がなく、そこを飛び出し都会で劇作家として成功を収めるが、死期が近いということを伝える為に地元に帰って行く。
そこにいるのは幼い時間を共にした母と兄、そしてほとんど記憶の無かった妹と新たに家族となった兄の嫁だ。
12年振りに会う母と兄はそれぞれ違った感情を抱いており、二言三言を添えた絵葉書でしかコミュニケーションを取ってこなかった母は、それでも成功を収めた息子と会うことに浮き立っていながらも、他の子供に対しての視線も忘れていない。
しかし、兄は家という制度や家族を大切にするがあまり、そこに縛られることで都会で成功した弟に鬱屈した感情を抱いている。
そして、ほとんど初対面となる妹と兄の嫁、こちらも対比的に描かれる。
妹は現状に大きな不満はないものの、退屈に押しつぶされそうになっておりながらも、都会で成功を収めている主人公に憧れを抱いている一方、兄の嫁は主人公不在の12年の間に築いた家庭のバランスを乱して欲しくないようである。
そんな風な人間関係を徹底的に会話だけで、しかも主人公以外の4人がエゴ丸出しで描かれるのだから、ほとんど主人公の言葉がなくストーリーが進んでいく。
 
ある種、映画的には不親切で、実際隣で観ていたおじいさんは「ひとつもわからん」と結構な終盤で声を出して嘆いていたので、間違いなく万人に受ける映画ではないと思うのだけれど、僕自身はそういた会話のやりとりにリアリティを感じたし幾度となく経験したことのあるので、どこまで進んでも交わろうとしない会話(ある種退屈で中身の無い様な、そして掴み所も無い様な話も実に人間らしい会話でもある)と、いつ主人公が死期を伝えることができるのだろうということが、非常にヒリヒリとした空気感がとても楽しめた。
映画内でもセリフとして出てくる「居心地の良い不幸よりも幸福を選べ」というセリフや、冒頭に描かれる鳩がうまく出てこれない鳩時計のカットや、ラスト付近の鳥に纏わるカットは、まさにこの映画のテーマであり、主人公以外が置かれた状況そのものの様だ(だからこそ彼はその磁場から脱出したのだろう)。
今までのグザヴィエドラン監督のある種のエモーショナルさや映像的カタルシスは薄いかもしれないが、この田舎あるあるをリアリティを持ってしっかり描ける筆力に圧倒させられたのだ。