2017.02.20

グザヴィエドラン監督の新作映画『たかが世界の終わり』を観た。
グザヴィエドランといえば同世代の気になる存在で、彼と同学年といえばJames Blakeにきのこ帝国の佐藤千亜妃、Simi LabのOMSB、更にその一個下は僕と同学年でTaylor Swiftに朝井リョウ、山戸結希、柳楽優弥、もう一個下になるとKOHHにtofubeats、Tyler The Creatorとなる。
そんな事はさておき、何本か観たグザヴィエドラン監督作の中では『わたしはロランス』が1番好きで、その次が『トムアットザファーム』に思い入れがあるのだけれど、今作は大好きなレアセドゥ出演作ということでそれだけでも眼福なのである。
 
主人公が12年間不在にしていた田舎の家族の元へ自らの死期を伝えに行くというのが今回の映画のプロットなのだけれど(そういった点では『トムアットザファーム』にも似たテーマを孕んでおり、またどこか山内マリコ著の『ここは退屈迎えに来て』が頭をよぎる)、12年の不在が生んだ溝、そしてその12年の間にできた新たな人間関係、そこに放り込まれ文字通り会話にならない会話劇のヒリヒリした感覚をバストショットの切り返しの連続で体験させられる。
 
ゲイである主人公にはおそらく地元には居場所がなく、そこを飛び出し都会で劇作家として成功を収めるが、死期が近いということを伝える為に地元に帰って行く。
そこにいるのは幼い時間を共にした母と兄、そしてほとんど記憶の無かった妹と新たに家族となった兄の嫁だ。
12年振りに会う母と兄はそれぞれ違った感情を抱いており、二言三言を添えた絵葉書でしかコミュニケーションを取ってこなかった母は、それでも成功を収めた息子と会うことに浮き立っていながらも、他の子供に対しての視線も忘れていない。
しかし、兄は家という制度や家族を大切にするがあまり、そこに縛られることで都会で成功した弟に鬱屈した感情を抱いている。
そして、ほとんど初対面となる妹と兄の嫁、こちらも対比的に描かれる。
妹は現状に大きな不満はないものの、退屈に押しつぶされそうになっておりながらも、都会で成功を収めている主人公に憧れを抱いている一方、兄の嫁は主人公不在の12年の間に築いた家庭のバランスを乱して欲しくないようである。
そんな風な人間関係を徹底的に会話だけで、しかも主人公以外の4人がエゴ丸出しで描かれるのだから、ほとんど主人公の言葉がなくストーリーが進んでいく。
 
ある種、映画的には不親切で、実際隣で観ていたおじいさんは「ひとつもわからん」と結構な終盤で声を出して嘆いていたので、間違いなく万人に受ける映画ではないと思うのだけれど、僕自身はそういた会話のやりとりにリアリティを感じたし幾度となく経験したことのあるので、どこまで進んでも交わろうとしない会話(ある種退屈で中身の無い様な、そして掴み所も無い様な話も実に人間らしい会話でもある)と、いつ主人公が死期を伝えることができるのだろうということが、非常にヒリヒリとした空気感がとても楽しめた。
映画内でもセリフとして出てくる「居心地の良い不幸よりも幸福を選べ」というセリフや、冒頭に描かれる鳩がうまく出てこれない鳩時計のカットや、ラスト付近の鳥に纏わるカットは、まさにこの映画のテーマであり、主人公以外が置かれた状況そのものの様だ(だからこそ彼はその磁場から脱出したのだろう)。
今までのグザヴィエドラン監督のある種のエモーショナルさや映像的カタルシスは薄いかもしれないが、この田舎あるあるをリアリティを持ってしっかり描ける筆力に圧倒させられたのだ。